「悪党」となる事を恐れるな!

切腹ばかりがサムライにあらず!

「悪党」楠木正成公の精神に学べ


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 先日、とある人より「下品で過激な<行動する保守>はサムライの美徳に反する」と批判をちょうだいした。「清く、正しく、美しく、潔く」がサムライの美徳なのだという。なるほど、そう言われてみればそんな気がしないでもない。しかしよく考えてほしい。誰がそんなことを決めたのか。

 江戸時代、鍋島藩の藩士であった山本常朝が口述筆記させた『葉隠』は、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の一節をはじめ、サムライの在り方、武士道の在り方を様々に説いている。『葉隠』は明治以降も読まれ、作家の三島由紀夫が『葉隠入門』を著したことで、ますます後世をして「サムライのバイブル」のように思われるようになった。

 しかし、新渡戸稲造が明治時代に著した『武士道』には「武士道の代表的著作」と言われる『葉隠』について触れられていない。山本常朝も新渡戸稲造の両者とも「サムライ」の在り方にこだわってみせたが、両者とも「サムライ」を代表する人間でもなければ、「サムライ」の在り方について“決定権”を持つ人間でもない。そして二人とも戦国動乱の世に生きた人間ではない。

 「サムライ」というものが、「かくあるべし」と定義付けられるようになっていくのは動乱の世ではなく、むしろ江戸時代にみられるような、世界的にみても極めて平和な時代に入ってからだった。「武士道」は幕藩体制を支える道徳や美意識へと収斂されていく。逆に実際の動乱の時代には、後世説かれるところの「サムライ」や「武士道」の枠組みにはまらないサムライたちが群雄割拠していた。

 後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒に呼応して決起した楠木正成公などは、その代表的な一人といっていいだろう。その忠義と功績を称え、後世では畏敬の念を込めて大楠公と呼ばれたが、当時の鎌倉幕府などからは、「河内の国の悪党」とも呼ばれた。

 大楠公は元弘元年に 後醍醐天皇の挙兵を拝するや、下赤坂城で手勢わずか五百騎ばかりにて決起し、篭城する。対する鎌倉幕府軍は数万。「すぐにでも攻め落とせる」と幕府方は思った。ところが大楠公の奇略に次ぐ奇略を受けて思った以上の損害を被る。赤坂城は幕府の大軍相手に一ヶ月以上も持ちこたえたが、 後醍醐天皇が幕府方に捕えられ、糧食も尽きてきた。普通の「サムライ」ならばもはやこれまでと、一族郎党ともに切腹して果てるところだろう。

 しかし大楠公は違った。戦死者の遺体に自分達の甲冑を着せ、嵐にまぎれて城に火をつけて落ち延びたのだ。幕府方が焼け落ちた城に入れば誰のものか分からぬ焼死体がいっぱい。楠木正成の一党は自決して滅んだと判断し、幕府軍は鎌倉へと撤退していった。

 その翌年、態勢を立て直した大楠公は千人ばかりの兵と再び千早城で決起。これには鎌倉幕府も驚き、討伐の大軍をさしむけた。大楠公方は城の上から敵兵めがけて大石を落とす、糞尿をまく、熱湯をかける、藁人形でおびき寄せるなどなど、従来の合戦には見られなかった斬新な戦法で、攻め来る幕府の大軍を相手にまたしてもゲリラ戦術でこれを翻弄。数ヶ月におよぶ持久戦を戦い抜く。

 わずか千人たらずの小さな山城に幕府軍が釘付けにされてしまっている。鎌倉幕府の体面は丸つぶれとなり、その権威の失墜は誰の目にも明らかだった。これにより全国の武士が続々と鎌倉幕府に反旗を翻した。そして元弘三年五月、執権の北条高時は鎌倉にて一族郎党と共に自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。

 これにより 後醍醐天皇を中心とした建武の新政がはじまるが、それに大きく貢献したのは大楠公に他ならない。「清く、正しく、美しく、潔く」とする後世かたられるところの「武士道」の枠組みにとらわれず、自らに掛けられる「悪党」の汚名も恐れずに起ちあがったのだ。

 そして何よりも大楠公の戦いで最も学び取らなければならないのは、相手に「負けない」という事だ。相手を即座に打ち倒しやっつけるのではなく、徹底抗戦の意思を堅持しながら生存し続ける思想だ。もし大楠公が赤坂城の戦いで「切腹」を選んでいたら建武の新政はなかっただろう。

 切腹という滅びの美学のみが「サムライ」ではない。大義のためには徹底的に持ちこたえ、いかなる悪名をこうむってでも、生き延びて戦い続ける精神が求められる事もある。この大楠公の精神は、反日勢力が跳梁跋扈する魔窟と化した亡国日本で、愛国者がいかに戦い続けるべきかの大教訓である。

日本人よ、「悪党」となる事を恐れるな!



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  by haigai | 2011-07-26 08:11 | 排害主義

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