「鎮魂の夏」に問う

「鎮魂の夏」に問う

「日本」を求めずして疑え!


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 日本にとっては六十六回目の夏であり、筆者にとっては十回ちかい夏だったろうか。今年も八月十五日が過ぎ去った。誤解を招く言い方かもしれないが、筆者にとっては八月十五日が過ぎるということは、一年の大半が終わってしまったような感慨を抱く事がある。そんな感情を抱いた時に、いかに自分自身が「戦後体制」と「大東亜戦争」に“束縛”されているのかと反省してしまう。

 八月十五日、靖国神社には多くの人が集う。日章旗を掲げた人もいれば、反天連のごとき大逆不敬なる物品を携行した徒輩まで集まってくる。ただ共通するのは、誰しもが日本という国家のありかたを求めるていることではないだろうかと思う。参道には日本会議、英霊にこたえる会が大きなテントを広げ、政治家や評論家を多数登壇させては、日本かくあるべしを語らせている。

 参道に通じる九段下交差点には様々な団体が集まり、それぞれの求める「日本」の在り方を求めるビラを配布している。皆、靖国神社の英霊に対する畏敬の念を持ちながら、「強い日本」「誇りある日本」を求めている。…筆者は異論を差し挟むものではない。

 ところが、靖国神社を誹謗中傷・冒涜する反天連への抗議行動などについて異論を差し挟む人間の言い分には承服し難いものがある。反日左翼勢力に対して抗議する我等について、「下品だ」「過激だ」というのであれば、「そうですね」と愛想笑い込みで返事もしよう。

 しかし、「日本人らしからぬ」「日本的ではないからケシカラン」というならば、ちょっと待って欲しい。その「日本的」なんてものは一体いつ誰が決めたのだ。いつもこのブログで問うている事であるが、日本人が大人しく、上品で、穏やかであらねばならないとは誰が決めた事なのだ。ましてや靖国神社と 御皇室を侮辱し奉る大不敬の徒輩を前に「大人しく」「礼儀正しく」あれとは、事なかれ主義を通り越して敗北主義ではないか。

 そもそも、「日本人らしさ」とは何のためにあるのか。自らの姿・体裁を装飾するアクセサリーなのか。国際社会から美しく綺麗に見られたいだけなのか。だったらフィギュアスケートか、モデルの練習でもしとけばよいのだ。ある「保守」を自認する人は「反天連など哀れんでおけばいい」と言って抗議行動から逃走した。これなどは魯迅が『阿Q正伝』で風刺した「精神勝利法」と何が違うというのだろうか。

 プライドだけは高く、行動がともなわないのであれば、前世紀の支那人や朝鮮人と同じく亡国の憂き目に遭う事すらも理解できないのだろうか。この理屈に沿えば、我が国に人民解放軍が侵攻して来ても、「内心で哀れんでおけば良い」との理屈になる。

 「日本人らしさ」とは自己を装飾するアクセサリーの類いではない。自己をエラそうに見せる道具でもない。そして何よりもそれは、観念的に求めるものではない。日本民族の生存を絶対目的として、常にその在り方を疑い続けるべきものである。「大人しく」「礼儀正しく」「正々堂々と」…そんな手垢にまみれた「日本人らしさ」を徹底的に疑うべきだ。



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  by haigai | 2011-08-17 22:32 | 排害主義

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