持病としての「きれいごと」

「きれいごと」は日本人の史的“持病”

悪意の国々と対峙する為に完治いそげ!


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 よーめん氏のブログも鋭く「きれいごと」を批判しておられるので、是非ご覧いただきたい。この「きれいごと」の問題点はいくつもあるが、その一つをあげるならば、日本人が地理的・歴史的に培って来た精神性との“相性”が良い事だろう。

 保守派は“アメリカ製”の日本国憲法や、自虐史観を「押し付けられた」「洗脳された」と批判する。もちろん、両方とも亡国の存在である事には筆者も同意であるが、さらに論を進めるならば、この日本国憲法(特に前文と第九条)と自虐史観それ自体が、そもそも日本人の持つ性質との親和性が高い事実に気付くべきだろう。

 日本人の極端なまでにお人好しで、性善説で、自虐的なまでに謙虚・謙遜で、大人しく礼儀ただしい国民性は、一旦、「日本国憲法」や「自虐史観」に触れると、拒絶反応を起こす事なく、それを受け入れてしまうのだ。

 憲法九条には「軍隊」と「交戦権」を放棄すれば、それで平和が訪れるとする空想が書き連ねてある。ここでは軍隊、軍人は徹底して卑しいものであり、それを遠ざけ、考える事すらやめれば、平和に過ごせるという思い込みがある。これはGHQによって作られたものではない。平安時代の貴族にも見られた発想だ。

 また、自国を卑下し他国を尊ぶことが、知的高尚さの証明であるかのような発想も、江戸時代の儒学者である、藤原惺窩や林羅山などに見られた思想である。当時は支那を尊び、「日中同祖論」のようなものから、ヒドいものでは支那ではなく日本に産まれた事を後悔する主張まで見られた。

 「きれいごと」とは、外国人・異民族に大きく触れることなく、平和な歴史を送って来た日本人が抱えこんだ歴史的・地理的な“持病”とでも言うべきものである。それが近代議会政治の進展と、周囲を取り巻く“悪意”の国々との関係深化の中で、“発病”してきたのが、日本の近現代史の一側面ではないか。

「きれいごと」が日本人の中だけで交わされている分には良かった。まだマシだった。しかし、それが異民族との間に交わされはじめると、日本は“連戦連敗”を重ね、大きなダメージを被った。

 戦後50年謝罪決議も、村山談話、河野談話、宮沢談話、管談話、教科書近隣諸国条項なども全て「きれいごと」である。左の求める外国人参政権、人権擁護法案も「きれいごと」である。一部の右が言う「八紘一宇」「大アジア主義」なども「きれいごと」である。そして政府は今、「第三の開国」をやろうとしている。これなどは「きれいごと」の集大成だ。

 「きれいごと」の悪質なのは、つくるのが簡単な反面、撤回がとても難しい点だ。昨今、全国で制定された「暴力団排除条例」は、とても問題を孕んだ条例であると思うが、これも「暴力団排除」との「きれいごと」なので、改廃は絶望的だ。それ以前に制定された「暴力団対策法」(平成三年)も同様だ。「きれいごと」は危険性を帯びていても、大衆を沈黙させてしまう魔力を秘めている。

 これを男と女の関係に例えてみよう。
「オマエなんかブスだ!別れてやる!コンチクショー!」と彼女に喧嘩で言ったとしても、「さっきはカッとして言い過ぎた。ゴメンね」と言える。しかし、
「君は美人だ。結婚してくれ!愛してる!」と言った後で、よくよく彼女を見てみれば、あまり美人でもないし、性格も合いそうにない。そこで、
「ごめん。さっき『美人』って言ったけど、やっぱ撤回」と言えるだろうか。まぁ、言ったら修羅場だろう。

 「きれいごと」は一度言ったら、その改廃が難しいし、それどころか更なる「きれいごと」を再生産させられるのだ。日本は「悪意」で滅びるようなヤワな国ではない。しかし、無責任で不誠実な「きれいごと」によって、確実に手足を縛られ、弱体化の一路に追い込まれている。無知と自己愛から来る「善意」が日本を滅ぼすのだ。

 この「きれいごと亡国スパイラル」を断ち切るには、「きれいごと」を叫んでやまぬ無能政府と、事実上その御先棒をかつぐ「きれいごと保守」への徹底した戦いと、街頭などにおける狂気をも帯びた闘争しか我ら日本人には残されていない。

日本人よ、「きれいごと」の鉄鎖を断ち切れ!!



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  by haigai | 2011-11-07 08:05 | 排害主義

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