活動家の気概を考える

d0178541_13442132.jpg


 年の瀬も迫り、忘年会などにも頻繁に顔を出す。とりわけ、運動関係の忘年会も多い。そんな席で激動の今年一年を回想する。運動とは“人間”との出会いと別れの連続であり、いろんな人や局面に立ち会って来た。 「人が運動をつくり、運動が人をつくる」というのは、筆者が運動に携わって来て実感した事だ。

 運動の話しをしていれば、必ず「人」の話しとなる。単なる論理や理屈だけではなくて、そこに集う人間そのものを無視して、より良い運動は成り立たぬ。そして、どんな人間でも運動を重ねていけば、それ相応に成長、変貌もしていく。

 愛国運動とは祖国の運命と向き合う事である。そして自分自身とも向き合い続けることである。何か大事を成そうと思っても、できる事は一個の身、一身の生涯において限られる。数十年やり続けても微々たるものだ。ましてや二、三年程度での結果など、失うを恐れるに足りないと思うのだ。

 活動家、とりわけ“指導者”に必要なのは、自分のやっている運動を好きになる事だ。親、兄弟、友人、先輩や後輩、誰に接しても自らのやっている運 動を熱っぽくも嬉々として話せるぐらいに好きになることだろう。作家の山岡荘八は『日蓮』の中において、法華経の教えに目覚めた日蓮上人が、まず親を折伏する様を描く。

 もしここで、日蓮上人が「おまえ、ホケキョウなんて変なこというな」「そうよ、近所にもみっともないじゃない」と親に説き伏せられていたらどうなる。解脱の旅に出家するゴータマ・シッダールタが親に襟首つかまれて家に引き戻されていたらどうなる。キリストもムハンマドも、吉田松陰先生もチェ・ゲバラも同じだ。

 ライブドア社長だった堀江貴文は、「商品やサービスを作ったら、まず親に売れ」と説いてゐる。「世界で一番あなたを信用しているのは親だから」だ。親も買ってくれない商品は売れないし、親をも説得できない思想や運動に世界を変える事はできない。 親にもナイショにして、親にも忍ばせなければならん思想や運動など、中学生が机の下に隠し持つエロ本以下である。速やかに焼了し去らんのみ。

 さて、日蓮上人は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」として既存の日本仏教を口撃して批判した。中でも、禅宗は仏典に違い、偽教邪義を流布する「天魔」であると断じたのである。その「天魔」との指摘に対して、当の禅宗である臨済宗のある高僧は、「然り」と認める。

「坐禅は強い精神をつくりあげる。何物にも動じぬ、恐れぬ強い精神を宿す。しかれども、その強い精神を持った者が、誤った考えを持ち、強大な権力につけばどうなるか。まさに日蓮上人の指摘する“天魔”が生まれる。強い精神を宿さんとするものは、常に自己心中の邪なる物と闘わねばならぬ」

 実は運動家も同様である。怪獣映画の古典「ゴジラ」は核実験で放射能を浴びた古生物が大怪獣となるが、運動の世界もそれに似ている。英雄も生まれれば、魔物も生まれる。否、両者は紙一重かもしれない。

 敵との衝突、官憲との弾圧などで強い精神を養って行く。普通に生涯を送れば、出会う事のない人間や出来事にもたくさん遭遇する。しかし、その中で慢心や驕り、私欲が生まれ、それを強い精神力のまま行使すればどうなるか。魔物となるのだ。

 活動家、とりわけ“指導者”は、自らを客観的に、時に自嘲的に見るぐらいの視点があって然るべきだろう。シェイクスピアの「リア王」に登場する気性の荒いブリテン王は、自らを道化におちょくらせる気概を持っている。徳川家康は、合戦に負けて敗走したあとの自らの怯え切った顔を、絵師に描かせている。この視点を欠けば、裸の王様となってしまう。

 そして、活動を志す人間は、何よりも仲間を好きになる事だ。仲間を好きになれば運動は必ず向上する。これらが欠ければ、運動は歪んでしまう。古今東西を俯瞰して、歴史や時代の変革とは、マルクスの指摘する歴史の必然性もあるだろうが、こうした人間一個の持つ心を見落とす事はできない。

d0178541_1345261.jpg


 吉田松陰先生曰く、「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」まごころを持って臨み続ければ動かせないものなど存在しない。今の日本を吉田松陰先生がご覧になれば、何党が悪いとも言わず、ただ日本人の至誠足らざるを嘆く事だろう。


人気ブログランキング、応援クリックを!





反鮮バッチ&排害バッチ販売のお知らせ!
[PR]

  by haigai | 2010-12-19 13:47 | 随想雑記

<< 歳末支那人排撃運動 「中期防」に見る対支那シフト >>

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE