奉祝紀元節! 神武天皇建国の精神を仰ぐ

奉祝 紀元節

神武肇国2671年


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 謹みて紀元節の佳き日をお慶び申し上げます。我が国悠久の歴史の息吹と共に、この佳き日を迎えられます事、皇国臣民として無上の感激であり、誇らしき思いであります。顧みますれば、畏れ多くも 神武天皇の御東征は幾多の苦難の果てに打ち立てられたものでありました。

 のちの 神武天皇となる神日本磐余彦尊は、兄君である彦五瀬命、稲飯命らと日向を立たれ長き東征の途に就かれますが、大和において長髄彦の抵抗に合い、彦五瀬命をなくされます。その後、嵐にみまわれ稲飯命もなくなられます。斯様な苦難を越え、宿敵であった長髄彦を討ち滅ぼし、橿原の宮で初代天皇として即位されました。

 その神武創業より2671年、討ち滅ぼしたはずの「長髄彦」は、栄えに栄え、増えに増え、隆盛をきわめているのが現在の日本の姿ではないでしょうか。長髄彦は財界にも、言論界にも、法曹界にもたくさんおります。政権中枢にはとくに大勢おります。

 長髄彦とは国威を毀損し、国民生活を省みない者、あるいは日本のあるべき形を壊すものといえます。長髄彦は内側のみならず、外からも大いに押し寄せて来るようになりました。そう考えてみれば、神武建国の古よりも、現在は遥かに大きな国難に直面していると言っても過言ではありません。

 そうした中で、今一度 神武天皇の発せられた建都の拝してみますれば、

我東に征(ゆ)きしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かゝぶ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清(しづ)まらず餘妖(のこりのわざはひ)尚梗(こは)しと雖も、中州之地(なかつくに)復風塵(さわぎ)なし。誠に宜しく皇都(みやこ)を恢廓(ひらきひろ)め大壯(みあらか)を規摸(はかりつく)るべし。・・・然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と爲(せ)むこと、亦可(よ)からずや…

 とあります、この最後の部分をとって「八紘為宇」あるいは「八紘一宇」と称し、この部分をもって「世界一家の理想」となす考えもありますし、戦前においては「大アジア主義」の理想に用いられ、現在でも「共生だ」とする意見もあります。それも一理あるでしょう。しかしそれは詔勅の“つまみ食い”というものです。

 神武天皇は何故、長髄彦と戦ったのかという事、建国の苦難に思いを致すならば、いたずらにこの一部をもって「誰とでも共生」と為す考えは生じ得ないはずです。むしろ、現在のように長髄彦のごとき輩が国の内外に大繁殖した状況では、今一度、御詔勅の劈頭にある「皇天の威を頼りて、凶徒就戮されぬ。」の部分に立ち返る事が大切ではないでしょうか。

 「皇天の威」とは、天照大神をはじめとした天神地祇の御神威をさします。そして「凶徒」たるところの者とは、これに服せぬ者であります。異神を仰ぎ、異なる価値観を持ち、我らに弓を引く者、まつろわざる者は「就戮」する。すなわちやっつけてしまうという攘夷の精神です。

 神を仰ぎ、敵を討伐してこそ、民が仲良く平穏に暮らすことができる——。 神武天皇の詔勅はきわめて当然、現在においても我らの行く先を照らし給う事を仰っておられます。この 神武天皇の詔勅は、戦前一部の偏った思想家に利用され、そして現在においても「綺麗ごと」を語る“愛国者”によって“つまみ食い”され、本来そこに記された攘夷の精神が見落とされがちになっております。

 「長髄彦」が内外に乱立し、国威が暗雲に隠れる今こそ、我ら日本人は今一度 神武天皇の詔勅を仰ぎ、国難打破・朝敵撲滅のために粉骨砕身してまいりましょう。


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  by haigai | 2011-02-11 10:26 | 随想雑記

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